〝日常〟の定義が「震災以前の生活」だとすれば、ですが。

さて。東京電力の電気料金値上げは避けられない情勢です。
アメリカ流の生活に憧れ、それを模範として出来た大都市の機能。
狭い敷地の中に1000万人もの人間を詰め込むことが出来るのも、膨大な量の電気があるが故。機械を使った大量生産による利益の独占や、大衆向けの娯楽なども電気の恩恵を受けた上でのこと。
しかしいつ暴発するかもわからない原発という名の爆弾を抱えたまま先へ進むことが出来るか。放射能が再び撒き散らされたその時にこそ、この国は終わります。

放射能で死ぬのが怖い。
仕事を失うのが怖い。
この世の全ての不安と不満を取り除きたい、
でもそれは不可能だと自覚した、一年前のあの日。

自分の住む場所から追い出され、且つこれからの生活に対する見通しも立たず、
その上子供達は転校先でいじめを受けるなどして心に傷を負っている。

「原発のせいで俺達はこんなに酷い仕打ちを受けたのに、
原発のお蔭で豊かな生活が出来ると人々は笑っている。
こんな世界は、社会のシステムはおかしい」

そんな風に思うことを果たしてテロリズムと呼べるか?
いいえ、これは普通の反応ですね。


話は変わりますが、自分は25日に行われた岡田副首相との対話集会に参加しました。
「明日の安心 社会保障と税の一体改革を考える」と銘打たれたその会の中で論じられたのは、「とにかく消費増税にご理解を頂きたい」の一点張りでした。
年金や保険のシステム、社会保障で収めた税金は国民に還元されるから、と。
しかし個人消費のコストを増やすその一方で、法人税は下げるという。

現状が十分に苦しいというのに、「更に上のレベルの生活を求めて行く、その為に税金を上げる」とする功利主義の考え方で、震災の前と後では余りにも状況が違い過ぎるのに、震災前から訴えて来た主張をそのまま継続しようとしている。
やはり国民を無視して政治が独立独歩している、という印象でした。

それに会の中では集会のタイトル通り、社会保障と税の話をしただけで、原発の話は全くありませんでした。目前の最重要課題であるにもかかわらず。後の質疑応答の時間に聞いても、答えは濁されるばかりで。

会の全体を通しての自分が受けた印象は、「どういう方針に舵を切るかは、あくまで『政治』が判断すること。ただ『国民』と対話する場を設けただけで、受け身に回ることはない」ということでした。
参加者の意見提案を論法で切り伏せるか、その場での返答を留保するかの二者択一。
ユーザーの声に応えず、自らが思う戦略を貫き通すメーカーの構図です。


話を戻します。
これまで日本はアメリカ流の社会を目指す風潮に流され過ぎました。ここにその限界が来たと言う他はありません。
前回の日記からの主張を繰り返す様ですが(繰り返し過ぎですが)、日本はアメリカほど国土が広くはありませんし、最終処分場を持たない東京や大阪で出たごみは、結局他の県で処理する羽目になります(島田市が受け入れなければ、実質的に被災地で出たごみを埋め立てる場所は無かった)。一極集中型の弊害は、当然そういう所にもあります。

だからこそ、これまでに作って来た新しい常識の弱さを知って、社会の構造には「嘘を混ぜない」ことを心に刻み、不測の事態が起こっても、容易に綻ばない強固な結び目を作ること。誤魔化さず誤魔化されないこれからを、他ならない自分達の手で作り上げていく。

ゼロからでは始まるものも始まらない、というのであれば、それは戦後に焼野原となった場所から復興を遂げた先人の頑張りを否定することになる。
それぞれの「今」を守る為に争うのではなく、壊れやすい状態の社会を頑健なものに作り変える為の方針の転換、それ故に協力をしなければならないということ。

原発のリスクを認識していながら反対しなかった、或いは周りに流されてしまった(一部の方は反対していたことでしょうが)ことは、全ての国民(勿論俺自身も含めて)が背負うべき「罪」であり、そしてこれからすべきはその償いです。
原爆や水爆の威力と影響とを誰よりも知る国でありながら、チェルノブイリもスリーマイルも対岸の火事で済ませて来た現体制は、即刻見直さなければなりません。

利便の追求だけが進化の道筋ではないということ、
「自由」の言葉の意味を拡大解釈しないということ、
「見えるリスク」は回避するということを、
この国は、俺達は、あの日の震災から学び取る必要があります。
不真面目さからは、少しの間でもオサラバしましょう。
今は耐え忍ぶ時期です。


※補足
前回の日記で更新が最後になるかもしれないと書きましたが、
その理由は、前回アップロードした写真、その内容です。
実際に雑誌に火を点けてみましたが、防火処理を施されているらしく、上手く燃えませんでした(恐らくそういうことをされることを「想定済み」なんでしょうね)。
なので、キッパリ白状するなら、残念ながら「焦げ目のついた雑誌を写真に撮って、
その上に炎の画像を被せて合成しただけ」です。

「火を点けた」というと、いわゆる「過激派」な印象がありますが、彼らには彼らの信念があって、だから国旗を燃やすなどの行為をしている。無差別テロをするなどやり過ぎな面が目立つけれど、彼らは彼らの主張がある。勿論、俺にも俺の主張があります(ただ、俺は法に抵触することをやるつもりは毛頭ありません)。

協力し合うこと、その為に何が必要なのか。

何でも暴力で解決するなら、協力なんてしなくても生きていける。
何でも電力で解決するなら、協力なんてしなくても生きていける。

でも、自分達の進むべき道は、そのどちらでもない。
もう一本、別の道が見えるでしょう。

コメント

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索