原発再稼働しないと明言できない野田首相に魅力はないのだろうし。
ならば下ろすのが得策と。

原発に関しては最早内輪で勝ち負けを揉めるレベルの話ではないと思うし、
事故がもう一度起こったら、今度こそ日本全体の負けになる。
ただでさえ放射能は容易く漏れるものだし、時間が経てば建屋自体も劣化する。
ましてあの規模の地震津波がもう一度原発を襲ったら、耐えられるハズもない。

福島の惨状を目の当たりにしていながら今を謳歌していたくないし、してしまえば原発を再稼働させようとしている政府や電力会社と同じだろう。そしてそれが福島の人々に許されるだろうか。いいや、許されない。だから抗議することを止めない。止める理由がない。
それは勿論決して免罪符的な意味ではなくて、心からの抗議。福島の人々と同じ気持ちだということ。

「原発再稼働反対」

「原発再稼働反対」

「原発再稼働反対」

もしもこうすることで何も変わらないのであれば、何をする意味もない。


必ずしも電気で何かしなければならないという思考の縛りを取り除かないことには、これから先、新しいものなど生まれるはずがありません。それは生産の元になるアイディアがそもそも枯渇しているから。作る側がだらだらと作って、買う側が欲しくもないのに買う生活、それこそ有り得ない。

同じ機能の製品で、中国や韓国の方が安いんだったら、そっちに飛びつくのはむしろ当たり前で、所得の低い人々にとってはなおさらのこと、日本の製品なんて買わなきゃいい。
やることをやり切ってしまった停滞感のある日本やアメリカと、これから発展して来るだろう中国韓国の勢いとを比べると、いや、比べるまでもなく国力の違いは明らか。というよりもモチベーションからして違う。
既にシェアを奪われてしまった分野に関していつまで固執するのか、そこに見切りをつけるのか、あるいは奪還を試みるのか。どちらがより賢いのか。


優先順位に関して言えば、メーカーを立てるのか、国家を立てるのか、個人を立てるのかの問題がある。しかしそもそも一番前に来るべきは国家であって、個人は一番最後。電気を使って個人の自由を主張するのはもう不可能。
維持できないならいっそしないで下さいと言いたい。

人間は一個体で生きていけると思っているのかもしれないけれども、決してそうじゃない。
人間はどこまで行っても人間で、自然に喧嘩を売ったところで勝てる訳ではない。
今までの時代を振り返ってみても、そこに愛はなかったし、誰もがただ堕落してきただけだった。これまでがどうだったかは知っている。大事なのはこれからをどう歩みべきかということ。

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