○今以上の何かを求めたい、その欲求について。
ロボットをもっと普及させるとか、
リニアモーターカーを走らせるとか、
宇宙旅行を身近なものにするとか。
少し前まで言われていたことが、もうあまり叫ばれなくなった。
それはなぜか。
リーマンショック以降、国の力が衰えたから? それもある。
そしてそれ以上に問題なのは、コストを下げることが難しいから。
地球上のものはほぼ探し尽くしてしまって、新しい発見を求めるには、
深海に潜るか、宇宙に出るか、その二つしかない。
そしてそのどちらも莫大なコストが掛かる。
効率がいいからとか、手早く簡単にとか、やたらと時間短縮ばかりが求められてきた現代。
しかしだからといってその分の時間を何に費やすかというと、それは趣味? 遊び? 勉強? どれもピンと来ない。
何でも電気がやってくれる?
それでいいの? 大きな大きな疑問符。
・例えば料金の支払いはカードでというと、
⇒金銭感覚の喪失。
いくら使ったのか忘れてしまった、子供にカードを持たせたら勝手に使い込んでしまったなど。
・何でも情報化してダウンロードというと、
⇒違法ダウンロードによる著作権の侵害、それに対する罪悪感の喪失。
・動作や作業をとことんデジタル化
⇒目の前にあるもの(例え自分がそれを作ったとしても)に対して実感がない。
どんどんと高速化していく社会があって、しかしモノを生み出すのはコンピュータじゃなく、「人間の脳である」ということ。機械の性能が上がっても、脳の処理するスピードが上がる訳じゃない。
モノを生み出す能力、創造力を養うこと、その為に、元となる「経験を積む、或いは積ませる」という行為を疎かにしたから。
仕事でスピードを求められるとか、それでいて独自色を打ち出さなければとか、負け組にならない為に焦って他者の真似をすることが慣例化してしまうとか、結果としてどの会社もやることが一緒に見える。いや、実際一緒なんですね。
映画やアニメのリバイバルとかリメイクが盛んに行われて、それをメディアが大々的にそれを取り上げたとしても、消費者がそこに魅力を感じていなければ意味がない。
原発事故以前の生活に満足していたなら、この先それ以上の何があるのでしょうか。
満足はしていない。不満は上げるならただ一つ、「つまらない」。
人と人との繋がりがあるからこそ喜びややりがいがあるんであって、そこに電気が入り込む余地はもうない。電話で離れた相手の声が聞こえるのはいいけど、やっぱり実際に会う方が嬉しいに決まっている。
何度も言うようですが非現実はあくまで非現実だし、これまで二、三十年、人間が一体何をやって来たのか反省すべき点は山ほどあって、今の世の中何が問題かと聞かれたら、俺は迷わず「全部」と答える。
家族は人間が形成する最小のコミュニティーで、その中心に父がいて母がいて子供がいて、祖父や祖母がいて、家族で店を経営するということも昔は珍しくはなかった。そしてそれぞれに役割があった。猫を飼うということにさえ、鼠退治という役が与えられて成立している。ただ愛玩用というだけでは、長続きする人間とそうでない人間とがいる。それも事実。
自由が利くのは素晴らしいことだけれど、利き過ぎて何をやったらいいのか分からないのでは困る。役割があるというのは生きる意味があるということだし、生きる意味があるということはそれだけで希望の沸くことでもある。
家族との繋がりをもっと、
地域との繋がりをもっと、
家庭を顧みられないほど仕事をするべきじゃない。
家族が自分の価値を見失うから。
あなたの存在には意味がある、そう思わせることが重要で。
子供にとっては特にそう、愛情が重要。
愛されている実感が沸かないのでは、愛することがどういうことか分からなくなる。
体の関係だけが愛することではないし、
子供が見る大人の姿がテレビの向こう側だけでは寂しい。
増して悪い大人の姿なんて見たくもない。
野球選手に憧れて結局夢破れてサラリーマンになるのと、
工場で働く父親に憧れて同じ工場で働くのとでは感覚、認識が違う。
何より本人が納得しているし、満足している。
落胆? そんなもの、する訳がないじゃないですか。
○結論としては、
これまで大人が子供を導く努力が足りなかったということ。現役世代が働ければそれでいい、その為に子供やお年寄りは施設に放り込む(言い方は悪いですが)或いは勝手に遊ばせておけばいい、という考え方に支配されていたということ。大人に都合のいい社会が子供にとっても都合がいいかというとそうじゃない。
そのやり方では、ある程度続きはしても長続きはしない。だから原発事故が起きた時点で、そういう時代は終わったんです。大人と子供は決して別の生き物ではないし、そこに繋がりがあってこそ、初めて社会全体が成り立ちます。
想像して下さい。
放射能を避ける為に家から突然追い出される人の気持ち。
暴力に虐げられ続けた女性達の気持ち。
学校でいじめられる子供達の気持ち。
想像して下さい。
彼ら彼女らがどういうことを感じ、どんな風に思い、何を考えるのかを。
もしそこに強い怒りや憎しみがあったら、そしてそれが爆発したら、
そこに何が起こるのかを。
考えましょう。
そういう愚を繰り返さない為にこれから何をすべきかを。
教師は事務的に子供に接するべきではないし、親も躾に携わるのが当然。
「なぜ山に登るのか?」と聞かれて「そこに山があるからだ」と答えることがあるとしたら、
「なぜ死ぬのか?」と聞かれたら、何と答えればいいでしょう。
自分は多分、自殺する立場に立ったら、「そこに何もないからだ」と答えると思います。
「自分をこの世に繋ぎとめるような何かが、ここにはない」と。
「登る」という行為に対して、「死ぬ」という"行為"は本来受動的にも能動的にも行われるべきものではないし、死は自然と訪れるもの、それが本来の形。
放射能では人は死んでいない。
でも「自分の受けた被害が賠償されないから」と自殺した人間がいる。
でも避難生活の辛さから自殺した人間がいる。
考えましょう。
人はなぜ死ぬのか。
ロボットをもっと普及させるとか、
リニアモーターカーを走らせるとか、
宇宙旅行を身近なものにするとか。
少し前まで言われていたことが、もうあまり叫ばれなくなった。
それはなぜか。
リーマンショック以降、国の力が衰えたから? それもある。
そしてそれ以上に問題なのは、コストを下げることが難しいから。
地球上のものはほぼ探し尽くしてしまって、新しい発見を求めるには、
深海に潜るか、宇宙に出るか、その二つしかない。
そしてそのどちらも莫大なコストが掛かる。
効率がいいからとか、手早く簡単にとか、やたらと時間短縮ばかりが求められてきた現代。
しかしだからといってその分の時間を何に費やすかというと、それは趣味? 遊び? 勉強? どれもピンと来ない。
何でも電気がやってくれる?
それでいいの? 大きな大きな疑問符。
・例えば料金の支払いはカードでというと、
⇒金銭感覚の喪失。
いくら使ったのか忘れてしまった、子供にカードを持たせたら勝手に使い込んでしまったなど。
・何でも情報化してダウンロードというと、
⇒違法ダウンロードによる著作権の侵害、それに対する罪悪感の喪失。
・動作や作業をとことんデジタル化
⇒目の前にあるもの(例え自分がそれを作ったとしても)に対して実感がない。
どんどんと高速化していく社会があって、しかしモノを生み出すのはコンピュータじゃなく、「人間の脳である」ということ。機械の性能が上がっても、脳の処理するスピードが上がる訳じゃない。
モノを生み出す能力、創造力を養うこと、その為に、元となる「経験を積む、或いは積ませる」という行為を疎かにしたから。
仕事でスピードを求められるとか、それでいて独自色を打ち出さなければとか、負け組にならない為に焦って他者の真似をすることが慣例化してしまうとか、結果としてどの会社もやることが一緒に見える。いや、実際一緒なんですね。
映画やアニメのリバイバルとかリメイクが盛んに行われて、それをメディアが大々的にそれを取り上げたとしても、消費者がそこに魅力を感じていなければ意味がない。
原発事故以前の生活に満足していたなら、この先それ以上の何があるのでしょうか。
満足はしていない。不満は上げるならただ一つ、「つまらない」。
人と人との繋がりがあるからこそ喜びややりがいがあるんであって、そこに電気が入り込む余地はもうない。電話で離れた相手の声が聞こえるのはいいけど、やっぱり実際に会う方が嬉しいに決まっている。
何度も言うようですが非現実はあくまで非現実だし、これまで二、三十年、人間が一体何をやって来たのか反省すべき点は山ほどあって、今の世の中何が問題かと聞かれたら、俺は迷わず「全部」と答える。
家族は人間が形成する最小のコミュニティーで、その中心に父がいて母がいて子供がいて、祖父や祖母がいて、家族で店を経営するということも昔は珍しくはなかった。そしてそれぞれに役割があった。猫を飼うということにさえ、鼠退治という役が与えられて成立している。ただ愛玩用というだけでは、長続きする人間とそうでない人間とがいる。それも事実。
自由が利くのは素晴らしいことだけれど、利き過ぎて何をやったらいいのか分からないのでは困る。役割があるというのは生きる意味があるということだし、生きる意味があるということはそれだけで希望の沸くことでもある。
家族との繋がりをもっと、
地域との繋がりをもっと、
家庭を顧みられないほど仕事をするべきじゃない。
家族が自分の価値を見失うから。
あなたの存在には意味がある、そう思わせることが重要で。
子供にとっては特にそう、愛情が重要。
愛されている実感が沸かないのでは、愛することがどういうことか分からなくなる。
体の関係だけが愛することではないし、
子供が見る大人の姿がテレビの向こう側だけでは寂しい。
増して悪い大人の姿なんて見たくもない。
野球選手に憧れて結局夢破れてサラリーマンになるのと、
工場で働く父親に憧れて同じ工場で働くのとでは感覚、認識が違う。
何より本人が納得しているし、満足している。
落胆? そんなもの、する訳がないじゃないですか。
○結論としては、
これまで大人が子供を導く努力が足りなかったということ。現役世代が働ければそれでいい、その為に子供やお年寄りは施設に放り込む(言い方は悪いですが)或いは勝手に遊ばせておけばいい、という考え方に支配されていたということ。大人に都合のいい社会が子供にとっても都合がいいかというとそうじゃない。
そのやり方では、ある程度続きはしても長続きはしない。だから原発事故が起きた時点で、そういう時代は終わったんです。大人と子供は決して別の生き物ではないし、そこに繋がりがあってこそ、初めて社会全体が成り立ちます。
想像して下さい。
放射能を避ける為に家から突然追い出される人の気持ち。
暴力に虐げられ続けた女性達の気持ち。
学校でいじめられる子供達の気持ち。
想像して下さい。
彼ら彼女らがどういうことを感じ、どんな風に思い、何を考えるのかを。
もしそこに強い怒りや憎しみがあったら、そしてそれが爆発したら、
そこに何が起こるのかを。
考えましょう。
そういう愚を繰り返さない為にこれから何をすべきかを。
教師は事務的に子供に接するべきではないし、親も躾に携わるのが当然。
「なぜ山に登るのか?」と聞かれて「そこに山があるからだ」と答えることがあるとしたら、
「なぜ死ぬのか?」と聞かれたら、何と答えればいいでしょう。
自分は多分、自殺する立場に立ったら、「そこに何もないからだ」と答えると思います。
「自分をこの世に繋ぎとめるような何かが、ここにはない」と。
「登る」という行為に対して、「死ぬ」という"行為"は本来受動的にも能動的にも行われるべきものではないし、死は自然と訪れるもの、それが本来の形。
放射能では人は死んでいない。
でも「自分の受けた被害が賠償されないから」と自殺した人間がいる。
でも避難生活の辛さから自殺した人間がいる。
考えましょう。
人はなぜ死ぬのか。
コメント
性善説と言うものがあります。
それはメイドインジャパンの産んだ産物です。日本は神道の国家です。しかし、世界三大宗教は皆、性悪説なんです。
それが理解できるだけでも日本は大きく変わると思います。