最近は

2013年12月6日 日常
余計なことばかり議論している国会ですけれども。
「いつものことか」と言いたくないのだけれど。
戦時戦前の国会の中はきっとあのような感じだったでしょうね。

『特定秘密保護法案』について議論する暇があったら原発事故の賠償のことを考えましょう。電力会社だけでできないなら政府がやるべきだし、政府だけでも出来ないようなら推進してきた企業団体こそがその責任を負うべき。


大切なのは情報を隠すことじゃなくて、逆にオープンにすることですよ。
これでは今でさえ高い不信感がこの先更に募るばかりです。

例えばチェルノブイリ原発事故が起きた時に放射能漏れを周知しなかった為に、
後になって癌の患者が急激に増えて問題になるということがありました。

いくら秘密にしても現実に影響が出ることはある訳で、
これはその「影響」の報道すらしないで秘匿しておくということなのか。
それで苦しむ人間には泣き寝入りをしておけというなら、
その不条理は許す訳には行きません。
というわけで、もちろん僕はこの法案には反対です。



で。

そもそもメディアが何の為にあるのか。その存在意義から問い直しましょう。
例えば何かの感情を煽る、問題意識を持たせる、そういうことは勿論。

ただ、経済の活性化の為に何をしてもいいと思うような市場至上主義自体、
あまりよろしくない、というか全く賛同しかねます。

自分が批判の目を向けられない為に他の物事に注意を向けさせる、
これも最悪。

隠せばどうにかなるという対応は後々汚職事件で謝罪する企業のトップと何ら変わりはないし、「知らなかった」で通せば逃げられるということ自体、許されるものじゃない。

逆に「知らなかった」と言えば責任逃れ出来るなら、「特定秘密だとは知らなかった」で逃れられないってどういうこと? 結局お上の言うこと素直に聞いとけっていうこと?

というかそもそも秘密って何なのでしょうね?
まあ答えられるなら秘密ではないんだけども。



責任は最終的に誰かが負うべきであって、誰もが責任逃れをするようないい加減な社会を作ったオトナという生き物にも、子供は戸惑いを感じる訳です。


電気に頼り続けること自体、人間が人間でなくなる一番の原因だと思うし、
電気が責任を取るかと言ったらやっぱり取らない。


「男と女の区別」を曖昧にするのも、

「大人と子供の境」を曖昧にするのも、

「国境」を曖昧にするのも、

「家族とその外側との境」を曖昧にするのも、

「責任の所在」を曖昧にするのも、

やっぱりそれらをひっくるめた社会全体を脆弱にするだけです。

きっちりした線引きが必要な訳です。



自民党のキャッチの「日本を取り戻す」というのは帝国主義時代の日本に戻るということなのかどうか。僕は人間性の方を取り戻して欲しいんだけれども。

変に安定を求め過ぎると独善的になるのが人間の性な訳だし、「安定は希望です」とおっしゃる公明党さんはそのことをどう受け止めてらっしゃるのか。



ところで。
話は変わりますが、「楽園」という言葉をご存知でしょうか。
誰もが好きなように振る舞える場所、というそんなイメージだと思います。

誰もが好きなように振る舞えるということは、
つまり相手の意志など意に介さなくてよいということ。
いいことのように思えますが、実際にはそうじゃない。


お互いの持つ物同士を交換することで経済というものが始まった。
ここで相手の意志を介さないということは、経済が成立しないということ。
人間個々の独立は経済の崩壊を意味する。

相手の欲しがらないものを作っても経済の活性化にならない訳で、それでもそれをやるということは、「供給は需要を生む」というセイの法則を鵜呑みにするようなもの。
作りさえすれば売れるならこんなに簡単なことはないし、経済は破綻なんてしません。

一人一人で暮らすより、まとまって暮らした方が寧ろ消費は多くなる。
というか消費せざるを得ない状況を生む。
一人で消費するのには限界があるし、仲間内でももちろんそう。
家族だからこそ生まれる命があって感動があって、社会が成り立つ。



キリスト教の聖書の中で、最初の人間である楽園に住むアダムとイブが、知恵の実を食べて、それまで互いの前で裸でいたことに疑問を抱かずにいたのに急に気恥ずかしさを覚えて、神から楽園からの追放を命じられる冒頭の場面があります。

ここからして、恐らくイエスはこのことに気付いたのだと僕は考えます。

奴隷を使えば平民の女性解放は可能だったハズだし、堕落した男に女性が身を任せるのは真っ平だったに違いない。しかし奴隷が酷い扱いを受け続けて反乱を起こせば結果はどうなるか。

アイツが悪いコイツが悪いと互いに罵り合っての殺し合いが始まります。
男が女に対して責任持たないのが悪いだの、代わりに原発に頼った女が悪いだの、
情況は今の現代人と全く一緒です。

そういう人間を哀れに思ったイエスは、全ての人間が平等に罪を背負っている、
つまり全ての人間に責任があることを説きます。
男が男である自覚を取り戻させ、女が女である自覚を取り戻させた。
楽園からの追放は、経済のみにより成立する社会からの脱出の意味。


経済が豊かになったと言って、何でもかんでも経済に巻き込んだそのこと自体が間違いだったと気付きます。全てをビジネスの対象としてしか見ないのはやめにしよう、と。

子供の目線からすると、オトナが好き勝手やっていて自分達に目を向けてくれないのに、
どうして社会の為に役立てとそれだけを求められるのかが疑問で、それ以前に自分という存在を認めて欲しいと願っている。
そして子供はそれに対してどうすることも出来ません。

精神的な自立は、やっぱり家族を通してじゃなければダメです。
いきなり社会に出されたんじゃ、人に対する思いやりもなければ金銭欲さえありません。
「生きる」という欲さえ失われてしまうかもしれない。

国家として以前に、人間としての再出発。



イエスの説いたことは人間性の復古だったからこそ、
だからこそイエスの生誕が西暦の始まりになったし、
そこから人類の歴史が区切られたことになっている。
そしてこれがキリスト教が今でも根強く信じられている理由だと思う。

これから僕らも同じことをすべきです。
西暦1年から始めるつもりで。
これが正解。


宗教は経済に対する抑止力になるし、科学に対しても抑止力だと思います。
日本は無宗教なのが目下一番の問題で、政教分離も見直すべきだと思う。
ただ、「国家神道だけはやっぱり勘弁ですね」というところで。

農業観光業自然エネルギー開発主体で産業育成、
目先の利益だけを求めない意識改革、
それに伴って賭博事業縮小(これなんかは諸に”目先の利益”ですし)、
これからやるべきことは色々ありますよ。

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